現在リリカルなのはの二次創作と日記を掲載。そのうちオリジナルの恋愛物も書くかも……
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空の少年17~あいのことば~
"父さんと母さんはね、はじめは全然結婚するつもりなんてなかった。そもそも私の方は、種だけ取るつもりだったし"
浅い眠りの中、彼は夢を見る。


"でもね、行った先で初めてあの人に出会って、そんな気持ちは吹き飛んだ"


それは自分でも呼び起こすことの出来ない、頭の片隅に封じられたかすかな記憶。


"それまで愛だの恋だの知らずに生きてきたから、まさか私が一目惚れするなんて思っても見なかった"


眠る我が子を膝の上に乗せ、その髪を撫でながら、静かに語りかける一人の女性。


"それからもおかしくって。思い返せば、私も暴走しちゃったわね"


かつての自分と母の姿を第三者視点から見つめることになった彼は、しかして素直にそれを受け入れていた。


"頑張って彼の気持ちを自分の方に向けようと、必死になって色々試したのよ"


母の顔には、優しい、とても優しい、慈しむ笑みが浮かんでいた。


"あの人に受け入れてもらえて、私は本当に嬉しかった。そうしてあなたが生まれて、私は本当に幸せだった"


その光景を目の当たりにして、夢だと理解しながらも泣きそうになった。


"あの人はいないけれど、あなたとの生活はとても、とても楽しいわ"


それでも、彼は泣けなかった。涙をぶつける場所がなかったから。


"やっぱり、色々とつらいこともあるけれど"


だんだんと、視界が霞み始めた。


"本当に、愛しているわ、黒煉。それは、何よりも確かなこと"


最後の言葉を聞き、彼の意識は現実へと浮上していく。


"生まれてきてくれてありがとう"


まぶたを開き、気の早い夏の朝日を見つめながら、今まで見ていた夢を思い返す。


「早いもんだな、もう一年半か」















夢の中で見たぼやけた世界は、果たしてただの覚醒の前兆だったのか。それとも、瞳に溢れる何かの所為だったのか。

それは、彼にも分からなかった。















魔法少女リリカルなのは 空の少年 17

  ~あいのことば~















「旅行に行きましょう」

最早恒例を通り越して習慣にまでなった、ハラオウン家での夕食の一コマ。その中で何気なくリンディさんの口から放たれたのが、今の一言だった。

いつも絶えず浮かんでいる穏やかな表情にさらに笑みを深く映して、翡翠の髪を揺らしながら、そう一緒に食卓につく者に問い掛ける。

その時は、自分にも聞いているのだとは分かっていなかった。

大きい声では言えないが、目の前の鯵の煮付けを突付くのに夢中だった。

鯵は塩焼きや片栗や小麦粉をまぶして揚げるのが一般的だが、淡白なその白身は綺麗に甘辛いたれを吸い込んで煮付けにしても良い主菜になる。

反面、素材の旨味を残したまま仕上げるのも難しい。旬というのもあるだろうが、それでもこれだけの味を出すのは相当繊細な味付けが必要だ。

副菜として用意した刺身も実に良い味をしている。いささかのり過ぎた脂を、あらかじめレモン汁でくどさを抑え、付け合せのおろし生姜がさらに全体を引き締めている。

俺も、うかうかしてると追い抜かれるな。

その味に賞賛の言葉を送りながらも、それなりに自信を持っていた和食の領域でも番付が逆転しそうな状況に、少し焦りも覚えた。

少し前から艦隊勤務を退いて、日常的に料理を作る時間が取れるようになった所為だろうか。元々高水準にあった彼女のその腕前だが、目の前の作品たちは最近頓に磨きをかけていることを証明するものだった。

内心に色々と思うところのある夕食を終えて、洗い物をする彼女に手を貸す。

食事の用意からその後片付けまで。思えばこの家での生活も随分と染み付いたものだと思う。

ここまでよそのプライベートスペースに踏み込んでいるというのに、他の生活は自分の家に帰るというのもおかしな話だと、口元には苦笑いが浮かんだ。

「あら、どうかしたの黒煉さん」

俺の様子に気付いたリンディさんが、そう声をかける。

この一年で俺の背もかなり伸びた。身長も一六〇を超え、今では彼女と視線の高さはほとんど変わらず、むしろわずかではあるが彼女が見上げる形になっていた。

「いえ……俺もだいぶ丸くなったものだと思って」

俺の言葉に目を丸くして、そして嬉しそうに笑みを浮かべた。

元々垂れ目がちな目尻をさらに落として、かすかに刻まれる片方だけの笑窪。

この人も、本当に老けないものだと心底感心する。もう既に四十も近いはずなのだが、そんな気配など一切見せない。

顔には皺なんて一切ないし、肌だって三人娘に比べれば劣るがまだまだ張りがあって十分現役だ。

何ヵ月か前に本局勤務になったときから、髪形も変えるようになった。そうは言っても、髪を纏める位置を以前のポニーテールから落として、襟足で結ぶようにしただけだ。

それだけでも元々落ち着いた女性が、その印象を増したように思える。艦隊を率いているときに必要だった、隠し持った鋭さと言うべきものが和らいだのだと個人的には思っている。

「そうね、私も大分自然に笑ってくれるようになったと思うわ」

答える彼女の表情は、シンクから洗い終えた食器を引き上げる動作に隠れて、こちらからは窺うことは出来なかった。

「じゃあ、お茶にしましょうか」

振り向いたリンディさんは、いつものように笑顔だった。

何か特別にお茶請けを用意するようなこともなく、ただ純粋にお茶の味を楽しむ。

ハラオウン家との付き合いももうすぐ二年に達しようとしているが、彼女が日本茶に砂糖とクリームを入れるのを矯正することは叶わずにいる。

世の中にはグリーンティーというものも存在しているのだから、考えようによっては有りと言えば有りなのかもしれないが、あれは全くの別物だというのが個人的な認識だった。

「それでね黒煉さん、旅行のことなんだけど、どこか行きたいところはあるかしら」

未だ俺には理解はしても受け入れられない液体を飲みながら言われたその一言が、最初何のことか分からなかった。

少し考えて、先ほど食事の最中に言っていたことだと思い当たったが、それもすぐには自分と繋がることだとも気付くまで時間を要した。

「……えっ、俺も行くんですか」

「黒煉さんも……というよりも、私と黒煉さんで行くのよ」

「はっきり言います。意味が分かりません」

頭で考えずとも、言葉の意味を理解した時点で反射的に声を返していた。

「フェイトやクロノと、家族水入らずで行けばいいじゃないですか」

「だって、クロノは艦を引き継いだばかりだし、フェイトは執務官試験を目前に控えているしで、二人とも忙しいのよ」

「だったら母親も子供たちを見守って、家で大人しくしてればいいでしょう」

「それにもうお休み取っちゃったし、たまには小母さんの相手もしてちょうだい」

お願いよー黒煉さんと、詰め寄られて肩を揺さぶられる。

そんな女子高生みたいな態度を取られても、あなたもういい歳でしょと、内心で思い浮かべる。

次の瞬間、背筋に猛烈な寒気が走った。慌てて横を見れば、表情自体は笑顔だが、前髪に見え隠れする目は全く笑っていないリンディさんが数センチのところに居た。

言葉には出さずとも、何かが伝わってしまったようだ。頭の中から急いで失礼な考えを打ち消す。

そもそも、俺はこの人と二人きりって言う状況が好かんのだ。これまでも可能ならば、誰か他の第三者を交えるように逃げ回っている。

別に彼女個人を嫌っているわけじゃないが、明確に理由は告げられないからこその回避だ。

どうしたものかな。

なんとかして断れないものかと考えを巡らせていると、遠くで戸が開き蝶番の軋む音が聞こえた。

今、この家には俺とリンディさんの他にもう一人居た。先ほどの夕食の場で居たのは六人。

うちクロノとエイミィさんは食事を終えて直ぐに艦へと戻り、アルフは散歩と称してふらりとどこかへ出かけ、残る一人は勉強のため自室へと籠もっていた。

その最後の一人がリビングに向かってきている。廊下から現れた金糸の髪に、俺は救いを求めた。

『フェイト』

『黒煉? 突然念話なんてどうしたの』

『援護してくれ。なんとか流れを――』

「今は私と話をしているのよ! どうして念話でこそこそフェイトと話すの!」

「え、そりゃ行きたくないか――」

「黒煉さん!!」

念話で会話しているのを気付かれ、最後までフェイトに伝えることが出来ないまま割り込まれる。

リンディさんの剣幕に思わず本音が零れてしまったが、それはさらに彼女の不満を爆発させることになった。

何だってこの人、こんなに俺を連れて行きたがってるんだ。他所様のお宅の子、ぶっちゃけてしまえば赤の他人だ。

一時的ではあるが師弟関係も結んだとはいえ、それ以外では所詮仲の良いご近所さん程度だ。拒否しているのを無理矢理にでも連れて行こうとする理由が見えてこない。

「旅行の話? 私は賛成だよ。私は勉強もあるし、二人で行ってくればいいと思う」

「でもな」

「ホントに私やクロノのことは気にしなくてもいいから、楽しんできてよ」

俺の瞳を真っ直ぐに見て告げる彼女には、有無を言わせぬ気迫があった。

何なんだ、皆して示し合わせたかのように。

こちらが首を縦に振るまで、二人とも解放するつもりはなさそうだ。

「……お供させていただきます」

今回ばかりは、いくら固辞の姿勢を通しても認められることは無いだろう。

「そう、よかった! 日程は今週末で一泊二日ね。聖祥も夏休みに入るから、ちょうどいいでしょう」

眩いばかりの満面の笑みを浮かべる彼女は、とても三十(ピー)歳には見えないほど愛らしい。

普通の男だったら、こんな顔されたら断るなんて出来ないんだろうな。

「わかりました、準備はしておきます。では、今日はこのあたりでお暇させていただきます。お休みなさい」

「ええ、お休みなさい。楽しみにしてるわ」

「はい。じゃあ、フェイトもまた明日な」

「うん、お休み黒煉」

二人の言葉を背に受けながら、俺は自分の部屋へと逃げ帰る。

玄関を出て、わずか数歩の我が家へと。

閉じた扉の鍵を後ろ手に閉めて、靴を脱ごうとしたがそれすら億劫だった。正直立っているのだって辛いぐらいだ。

「くそっ……果てしなく鬱だ」

思わず玄関に凭れ掛かり、地べたに腰を下ろして一人頭を抱えた。















 ◆◇◆◇◆◇◆















少し付き合ってくれ。

そう言われて、私は一も二も無く頷いた。黒煉からの誘いを、私が断る理由は無かった。

傍に居られるだけで嬉しかった。だから、その用事が何だろうと、それはどうでもいいことだ。

こうして隣を歩いているとまだ私のほうが背が高いが、それでも向かい合ったとき、ほとんど視線が同じ高さにあるというのは、どこか良い意味でくすぐったかった。

連れて来られたのは、地上本部の屋内演習場の一つ。

地上本部とはいっても実態は所有しているだけであって、立地としてはむしろクラナガンの郊外にあり、めったに利用されることも無いようなところだ。

黒煉自身、今は余り大っぴらに時空管理局に出入りできる立場でもない。

だが、ここならスクーデリア少将に一声かければほぼ自由に使えるということで、私たちは度々ここで模擬戦をすることはあった。

「突然だな、どうしたんだ」

私の問いかけにも、どこか居心地が悪そうに身じろぎをするばかりで答えようとしない。

今日は連絡をしてきたときからこんな感じだった。ずっと何か考え事をしているようで。

言葉が返ってこないことは少し悲しいが、むしろそんなときに私を頼ってくれたことの方がずっと嬉しい。

溜息を吐きつつ笑みを浮かべ、胸元からレヴァンティンを取り出して展開する。

「ほら、デバイスを出せ。まずは剣を合わせよう。それが、私たちにとって一番良い解決策だろう」

「……そうだな。その方が気も晴れるか」

黒煉が右腕を振れば、その手の中に納まるのは一振りの長刀。

この一年半の間に、肉体の成長に合わせて幾分か長くなった漆黒の刀身。

『Get ready……Drive!!』

アコンプリスの声に合わせ、二人が同時に踏み込む。

魔法などといった無粋なものは必要ない。

もちろん非殺傷設定だけは展開しているが、これはただ己が肉体と技術のみを競わせる、戦士としての力比べ。

こうして打ち合っていると分かる。もうすぐ黒煉は私を超える。既に単純な筋力では私は負けているだろう。

かろうじて私の勝率が高いのは、これまでの圧倒的な経験値の差だ。だがそれも、黒煉の才能と努力が凌駕しようとしている。

騎士として悔しいと感じてしまうのは、否定できない。直接それを言葉にしてぶつけたことだってある。

だがそれ以上に、師として弟子の成長の喜びもまた否定できないし、隠しもできない事実だ。

本当に腕を上げたものだ。

私の中ではある種憧れにも似た気持ちを抱かせるほどに、黒煉の才能は眩しかった。

だが、私を倒す日を少しでも遠くするため、私は烈火の将としての意地全てをかけて、黒煉の前に聳え立つ壁となろう。

それが、お前をさらに高みへと押し上げる。お前が相手なら、私はそのための踏み台になることも厭わない。

以前に比べれば格段の進歩を見せたが、それでもまだまだ拙い護剣を強引に押し切るように、私は脇を絞り渾身の一撃を振り下ろす。

受け流すことなく正面から上段を受けた黒煉の手は痺れ、ラハト・ケレブはそのまま床に突き立った。

「あー……負けた」

少しばかりの落胆を見せるが、それでも先ほどよりもずっと楽そうな表情をしている。

「私のほうこそ、今日は負けられんさ。本調子ではなく、考え事までしている相手に膝を付いたとあっては、ベルカの騎士の名折れだ」

「まぁ、確かに」

自分でも分かっているんだろうな。苦笑しながら、私の差し出した手を握って立ち上がる。

激しい運動で汗に濡れた体を、付属のシャワールームで洗い流す。残念ながら、男女別だ。

私はいつも一緒に浴びてもいいと言うのだが、決まって「黙れ痴女」とすげなく追い出される。

誰彼構わずそんなことを言おうものなら、それはまさしく痴女だと思う。

だが私は黒煉にしか言わないから、それは愛情表現の一つだと思うのだが、生憎あいつには通じていない。私も冗談めかしてしか伝えてないから、しょうがないか。

それとも、私の体には女性的な魅力が乏しいのだろうか。水滴の滴る体を見下ろし、備え付けの鏡で今一度よく観察する。

顔の造詣については、自分で評価することにほとんど意味は無いと思うが、身体つきは十分優れている筈だ。

腕や腹部に筋肉が付きすぎているような気がしないでもないが、胸や腰周りは程よく丸みを帯びて柔らかさも持っている。

ほとんどシャマルや主の価値観の受け売りだが、世間一般で言えばかなり"わがままぼでぃ"というやつだと思う。

「っ、くしゅっ!」

突然のくしゃみに思考が中断させられる。少し寒気を覚えて時計を見やれば、ずいぶんと長い間考え込んでいたようだ。黒煉もとうに上がっているだろう。

慌てて体を拭いて衣服を身につけ、ロビーの休憩室に急いだ。

「遅い」

待ちぼうけを食った形の黒煉の開口一番の言葉はそれだった。

「済まない。髪を乾かすのに手間取ってな」

何の考えもなしに口を付いて出た言い訳。

「まったく」

ぼやきながら私に近づき、おもむろに髪を撫でられた。余りの自然さと、一瞬で踏み込まれた肉体的な距離に羞恥で顔が赤くなる。

ほんの数センチのところに、黒煉の顔があった。

目鼻立ちがはっきりして青年の気配を感じさせ始めた端正な顔つきに、それ以上に全てを見通すかのような鋭い視線。両頬を流れる黒髪は、いつもの様につややかに輝いていた。

だが、それらもすぐに目に入らなくなり、私の視線は唇に集中してしまった。

今ならわずかに動くだけで、二人のそれは重なることだろう。

「嘘を吐くなら、もう少しマシなものを考えてくれ」

見つめていた唇が動き、言葉が発せられたと気付いた。遅れてその意味を理解すると、黒煉は呆れた表情をのぞかせる。

ふと暖かい風が背中越しに流れた。直ぐに離れていく黒煉を残念に思いながら、少し軽くなった自分の髪に触れれば、伝わる感触は柔らかなもの。

「ありがとう。しかし、便利なものだな精霊術も。対象を限定して水分だけ飛ばすなんて」

「ん、これはこれで結構難しいんだけどな。何事も訓練だよ」

私には見えないが、集めた精霊を解放しているのだろう。小さく感謝の言葉を呟きながら、手を払っている。

「それで、話があるんだろう。言ってみろ」

そういえば、以前もこんなやり取りをした気がする。

あれはいつだったか。確か、去年の冬の終わりぐらいだったはずだ。そうだ、黒煉が魔法に関わるようになった直前だな。

珍しく、本当にへこんだ顔をしていて、今思い返せば実に母性をくすぐる空気を発していた。

「何だがよく分からんが、今度リンディさんと旅行に行くことになった」

「ああ、そうなのか。良いんじゃないか、楽しんでこい。私が居ないことは大いに不満だが」

その話か。提督はもう誘いは掛けられたのだな。ニュアンスとしては、承諾はしたが何故だか分からないといったところか。

提督が黒煉と二人で旅行に行くというのは知っていた。というよりも、私も含めて幾人かで話し合って決めたことだ。

このままでは良くないと、私やハラオウン提督、スクーデリア少将、レヴェントン提督ら年長組は誰もが思っていた。そして、それは管理局関係者に限ったことではない。

高町家の方々の意見も参考にして、今回のことは実行に移した。

ここで私は、少しでも黒煉の心象を良くしておかなければならない。

「提督は気づいていないかもしれないが、いつまでも逃げ回っているわけにもいくまい。そうだろう?」

「そんなことはわかってるさ。でも、俺だってどうすれば良いか分からないんだよ」

ベンチに腰掛けながら、俯いて頭を抱える黒煉はひどく、ひどく小さく見える。

芯が定まっていない所為だと思う。黒煉はとても不安定だった。

こうして時折見せるその端緒に気付いている者はどれだけ居るだろう。

お前が何をすればいいかなんて、実際のところは簡単なことだよ。

自分が誰かの生活の一部になっていることを自覚すればいい。

自分が誰かに必要とされていることを知ればいい。

自分が愛されていることに気付けばいい。

本当に、それだけでいい。

「ここで適当な解をお前に与えるのは、きっと容易いことなんだと思う。でも、本当にそれが良いことなのかは私には分からない。

 それ以上に私の我儘だが、お前には自分で気付いて立ち上がって欲しいんだ」

それは、私の役割ではないんだ。

私はお前と並び立つ者であり、護る者でも護られる者でもない。

クラーク・マクラーレンが次元世界に対する役割を説いていたな。あれとは少し違うが、それでもそれぞれに課せられた仕事というのはあるんだ。

別のものがそれをしても、それは本当の意味で効力を発揮しない。

今黒煉に必要なことは、あの人の仕事。

私の仕事は、傍を離れず、共に称え、時にその頬を叩き、時にその背中を押すことだ。

「さっきも言ったが、楽しんでこい。それが、今のお前に、私から贈ってやれる言葉だ」

そう告げても、変わらず俯いたまま顔を上げようともしない。

実態以上に小さく見えるその姿に、抱きしめたくなる衝動に駆られたが、それは今度の旅行が終わるまでしてはいけないことだ。

内心の葛藤を隠して、私は黒煉の前に立ち、両手でその顔を掴んで強引に上向かせる。

突然の事態に理解が追いつかず、瞳には困惑が浮かんでいた。

私はそんなものは無視して、腕を大きく開きその両頬を同時に左右から張った。

誰も居ないロビーに、乾いた音が響き渡る。

「……痛ぇ」

「痛くなかったら、もう一回やるが」

「いらん」

そう言うと黒煉は立ち上がり、私の手に自分の手を重ねてゆっくりと下ろさせる。

「はぁ、まあいいや。とりあえず、頑張ってみるよ」

「頑張らなくていい。楽しんでこい」

「……頑張って楽しんでくるよ」

「ふむ、ギリギリだがそれなら良しとしよう」

多少は表情に気迫が戻ったか。

「しかし、相変わらず漢前だな、烈火の将は」

「失礼なことを言うな。私だって恋する乙女だ。それこそ、好きな人を思い浮かべて毎晩眠れないぐらいだ」

「あーそう」

「むっ、信じていないな。だったら今度……」

軽口を言い合いながら、演習場を後にする。

なあ、黒煉。

今度の旅から、お前が帰ってきて、お前が何かを見つけられていたら、私は勇気を出して伝えるよ。

好きだって。

愛しているって。















 ◆◇◆◇◆◇◆















「あら、あれも良さそう。今度はあっちを見てみましょう」

はしゃぐリンディさんに手を引かれて連れ回される店内。

別に今いるのは旅先の少し寂れた土産物屋とか、そんなところではない。

見渡せば視界に移るのは、様々な色の布地だった。生地そのままではなく、ちゃんと縫製されて製品となっている。

それらが棚に折りたたまれて並べられたり、ハンガーに通され陳列させられている。

ここまで説明すれば分かると思うが、今俺たちがいるのはブティックの店内。

はっきり言おう。これは断じて旅行ではない。普通の人が見れば、十中八九デートと答えるだろう。

あー、いや旅行ではあるのか。ちゃんと遠出しているのだから、一概に否定は出来ないのかもしれない。

次元世界に関わるようになってから随分と経つが、実のところ行ったことが無い場所というのは多い。むしろ、行った場所なんて数えられる程度だ。

観光地なんて、覚えてる範囲では第十二管理世界にある、聖王教会の中央教堂ぐらいだと思う。それもカリムが遊びに来いってブーたれるもんだから渋々だった。

ミッドチルダの中ですら、ほとんど出歩くことが無かった。考えようによっては、確かに今回は良い機会なのかもしれない。

この店があるのは、ミッド東部にある複合アミューズメント施設、パークロードの中だ。

施設とは言ったが、多分これは街一つがテーマパークにでもなってるんだろう。そう言っても過言ではないほどの規模だ。

この区画整理のされ方を見るに、元からそういった完成形を目指して造られたのがわかった。

地球風に言うと、ねずみの国に一般的なショッピングモールを追加したような印象を受ける。

「ほら、こんなのも良いと思うんだけど」

「そうですね、いいんじゃないですか」

「さっきからそればっかりよ。私にばっかり任せてないで、黒煉さんもちゃんと考えないと」

先ほどからずっとこんな調子で服を選ぶ彼女を見ていると、確かに疲れはするが面白いとは思う。

子供のようにころころと変わっていく表情や、反面ちゃんと大人としてこちらを導いていく余裕もある。

今選んでいるのは、彼女ではなく俺の服だ。普段そこまで頓着することなく、基本的に白か黒しか着ないため、リンディさんがコーディネイトするといってここに連れて来られた。

「次はこれを着てみて。髪の色もあるからモノトーンが一番しっくりくるんだろうけど、アクセントにこういった暖色系のも合わせると良いと思うわ」

そういって差し出されるのは、銀朱のハイネックアンダーにリンクル加工されたアイボリーのシャツジャケット。ボトムはストーンウォッシュのダメージジーンズ。

無難な選択かもしれないが、やはり見る目は確かなのだと思う。俺の趣味も多分に理解しており、そこから大きく外れないような配慮もしてくれたのだろう。

促されるままに渡された服を持って試着室へと向かうが、いささか面倒臭いという感情も頭をよぎった。

カーテンだけでなく、しっかりとパーティションで区切られたフィッティングルームに入ると、小さく息をつく。

ハンガーに吊られた服を暫し見つめるが、このままいてもどうしようもないと諦め、億劫な動作でもそれに袖を通していく。

途中、鏡を見やれば、そこに映るのは胸糞の悪くなるようなけったいな表情を貼り付けた自分の顔。

ふとシグナムの言葉を思い出した。

楽しんでこい……か。簡単に言ってくれる。

頭を悩ませながらも、シグナムの思いやリンディさんの好意を無碍にするのは心苦しいことに変わりは無かった。

先ほどとは打って変わって、大きく深呼吸をする。

室内だから新鮮とは言い難いが、新しい空気を肺に送り込み、それをゆっくり、ゆっくり解き放つ。鬱屈した思いを共に吐き出すように。

瞼を開けば、少しは気も紛れたような気がする。

頑張ってみるか。

軽く意気込んで最後のジャケットを羽織り、扉を開けた。

「どうでしょうか」

話していたリンディさんと店員が、俺の言葉にこちらを振り向いた。

「あら、思った以上に似合ってるわね」

「ええ、お客様は手足が長いので、装飾にこだわるよりこういったシンプルなものの方が全体がシャープに纏まりますね」

二人して褒め言葉しか出てこない。いやぁ、ここで貶すようなことを言うほうが稀有な存在だろうが。

「どうかしら、気に入ってもらえた?」

「はい。動きやすいし、俺も好きな色合いです」

「そう、良かった。じゃあこれに決めましょうか」

試着室の中に引き返して、さっさと元の服へと着替える。

リンディさんには自分の服を見てくるように伝えておいたので焦る必要は無いのだが、やってみたいことがあった。

気付かれないようにこそこそと試着室を抜け出し、店内を物色する。

こういったもののセンスが俺に備わっているかどうか分からないが、やるからには出来る限り良いものを選びたいと思う。

気配を探ってみれば、リンディさんもふらふらとあちらこちらへと歩き回っているようだ。

なんだかんだで自分も見て回りたかったんだろう。今でこそ本局勤務となって時間があるが、艦長をしている頃はゆっくりと買い物に行く時間も満足に取れなかったはずだ。

それだけ、艦を率いることは激務の一言に尽きる。数ヶ月の長期に渡って次元の海を航海し続けることなど、さして珍しい任務ではないのだ。

それを思うと、俺の気合も一層増したように感じた。

先ほどの店員を呼んで、見繕った服を纏めて彼女の元へと戻る。

「うーん、久しぶりだから、良いものを買っておきたいのよね。あっ、あれも可愛いかも」

一人でぶつぶつと呟きながら、少し急ぎ足で手にとってみては棚に戻す動作を繰り返している。

わずかに鬼気迫るといった言葉が似合うその光景に、思わず苦笑が零れた。

「リンディさん」

「ああ、黒煉さん。どうしたの? 少し遅かったけれ……」

こちらを振り向いた彼女の言葉は、しかし最後まで紡がれること無く萎んでいった。

ニコニコと満面の笑みを浮かべる女性店員が持つ、一式に気付いたからだ。

それはもちろん俺が着る服ではなく、一目見て女性用と、彼女のために選んだと分かるもの。

「あんまり軽いものだとリンディさんの雰囲気にも合わないし、こういった落ち着いたやわらかいものが良いと思うんですが、どうでしょう」

光沢のあるクロムグリーンに、ペルシャ更紗のような柄が黒で描かれた八分袖のチュニックと、踝が軽く覗くグーズグレイの九分丈パンツ。オーバーにはノースリーブのロングカーディガン。

だが当のリンディさんの方は、それを見つめたまま固まってしまって動くことは無い。

あれ、やっぱりセンス無いのか。

少しばかり不安になって、隣の名前も知らない女性店員を縋るように見てしまった。

「大丈夫ですよ。私から見ても、実にお似合いのコーディネイトだと断言できます。自信を持ってください」

なんだか励まされた。

そんな俺の様子に、意識が飛んでいたリンディさんが、ようやくこちらの世界に帰ってきてくれた。

「ごめんなさい! 別にそういう意味じゃなくてね、まさか選んでくれるなんて思っていなかったから、驚いちゃって……」

顔を赤くして、照れくさそうにしながらも、その顔に浮かんでいたのは紛れも無い笑顔だった。

その表情を見て、俺の気持ちも救われる思いがした。同時に、少しだが楽しいという思いも。

「いかがされますか、お客様?」

この人は、実に仕事のできる店員だ。自分から何かを押し付けるようなことはせず、ちょうど良い間を見計らって声を掛ける。

今も頃合を見て、先を促して助け舟を出してくれている。

「じゃあ、試着してみます。ちょっと待っていてね、黒煉さん」

そう告げて離れていく二人の女性を見送る形になった。

どうやって待っていようか考えてみるが、女物の区画では一人眺めて待つということもやりにくい。

だからといって、この場所を離れるほどの時間的余裕はないから、ただぼけっとしている以外に選択肢は無いのだ。

姿は見えなくとも、試着室へと入る二人の会話が、ふと耳に届いた。





「とても素敵なエスコート役ですね。まだまだお若いのに、もう立派に紳士を務めて。弟様……ですか?」

「いえ、娘の友人なんです」

「あら、そうなんですか。本当に仲がよろしいので、ご家族の方かと思ったのですが」

「そう見えていれば、私も嬉しく思います。本当に、本当に家族だったら、どんなに良かったか……」





聞こえていたリンディさんの声は徐々に小さくなっていき、俺の胸に残ったのは、言葉に乗った悲しげな色だけだった。















 ◆◇◆◇◆◇◆















「次はどれに乗りますか」

そう私の手を取って先へと進む彼とのツーショットは、先ほどのブティックと逆の立場を表していた。

場所を移して、今私たちがいるのはアトラクションエリアだ。見た目では第九七管理外世界にある遊園地と相違ない。

使われている技術に大きな開きはあるが、娯楽の面では二つの世界が行き着いた先は同じだったのだろう。

休日を楽しむ多くの人々の声がそこかしこから響き、私たちの耳を楽しませてくれる。

そんな中、隣を歩く黒煉さんのことを考える。

ブティックにいる途中から、少し纏っている空気が変わっていた。

判断材料が決して多いとは言えず断言は出来ないが、楽しんでくれてはいるのだと思う。

それが自発的か、それとも無理をしてそう振舞っているのかは分からないが。

いや、分からないなんてことはない。

そもそも、悩む必要なんて無い。

自分にそう言い聞かせているだけなのだろう。

それとなくそういった内容のことを伝えたと、シグナムさんからは聞いていた。

それも一つの切欠にはなるだろうが、どれだけ効果があるのか。

そのほどは、繋がれた手の温度が如実に物語っていた。人間の体というのは、本当に良く出来ている。

リラックスしていればはっきりとは表れないが、緊張していればそれが強ければ強いほど、肉体の末端の温度が低くなる。それだけ血の巡りが悪くなるのだ。

つまり、この手はそのまま今の彼の心情を表しているということになる。

「リンディさん?」

気付けば、彼の顔が目の前にあった。不思議そうな顔をして、真っ直ぐに私の瞳を覗き込んでいる。

いけない。少し考えに耽りすぎたみたいね。

あんまり無理をさせるわけにもいかないし、そろそろ間を挟もうかしら。

「ちょっと待ってね」

答えながら、バッグに入れていたパンフレットを取り出して、どこか休める場所は無いかと目を走らせる。

一〇分ほど歩いていったところに、広場があるようだった。

かなり大きな芝生で覆われ、周りには絶叫系のアトラクションも無いので、騒々しいということもなさそうだ。

休憩するにはいい場所だろう。

「私も少し疲れちゃったから、ちょっと休みましょうか。何か飲み物でも買ってくるわね」

「いや、いいですよ。俺も行きます」

二人手を繋ぎ、まずは近くにある売店を目指す。

こうして歩いていると、周りの人に私たちはどういう風に映るのだろうか。

老若男女入り乱れる人並みを擦り抜けて、そんなことを思う。

親子? それとも姉弟?

彼に聞いても、それは恐らく黒煉さんを苦しめることになるだろう。

でもそれは、大事なことだ。

「アイスティとホットコーヒ-を一つずつお願いします」

黒煉さんが私に代わって、売店の男性に声を掛ける。

店員は勢いよく返事をして、手際よくカップとストローの用意を進めていくのをぼんやりと眺めた。

この仕事が長いのだろう。慣れた手つきを見れば、そのことが容易く想像できた。

「羨ましいねぇ坊主。こんなベッピンさんの年上の恋人とデートなんて」

二つのコップを渡しながら、黒煉さんにそう笑いかけた。

「別に恋人なんかじゃありませんよ。あぁ、あとガムシロいっぱいください。この人甘党なんで」

「はいよ。そうやって気が利くのは、良い男の証だねぇ。上手くやんな」

「何をですか」

彼も笑って答えながら、代金を払って商品を受け取る。

恋人か、そういうのもあるのか。

今までそういった風に考えたことは無かった。確かに彼も、年に比べてかなり大人びて見える。

年齢で言えばまだ十一才の少年だが、それに不釣合いな上背と落ち着いた印象から、見ようによっては十七,八には感じられるかもしれない。

自分で言うのもなんだが、私も年齢の割りにかなり若く見える方だとは思う。

そんな二人が歩いていれば、恋人同士として見られる可能性もあるのだろう。

少し歩けば、直ぐに見えてくる開けた公園。

芝も日ごろから丁寧に手入れをされていて、心地よい陽の光と相まって思わず寝転びたくなる光景だった。

「あの辺りなんて良さそうね。あそこで一休みしましょう」

黒煉さんを伴って、そのまま腰を下ろそうとしたところで、動きを止められた。

「ちょっと待ってくださいね」

彼は自然な動作でポケットからハンカチを取り出して、芝の上に広げた。

ここに座ってください、ということだろう。

よく気が付く子だ。こんなところまで気の回る男性など、世間にどれだけいるだろうか。

お礼を告げて、その心遣いに甘えて腰を下ろした。

手渡されたアイスティを一口含めば、広がるのは濃厚な甘さ。

本当に、よく気が付く子だ。

「大丈夫? ちょっと疲れたような顔をしてるけれど」

「ええ、大丈夫です。疲れたって言っても、今日というより昨日の訓練のほうが厳しくて、それが抜けてないだけです」

言われてみれば、確かに昨日の夕食に彼は姿を見せなかった。

この若さからすれば、常日ごろ過剰なまでのハードワークをその身体に強いているのは想像に難くない。

「つらくない?」

「そうですね。特別嫌だと感じたことは無いです。休みたいと思うことはありますが」

今の彼は、何のためにそれを学んでいるのだろうか。

きっと、明確な理由など無いのだろう。

それが一番自然だと思うからとか、そんな主体性の無いものだ。

だからこそ、いつも肩の力が抜けていないのだ。

そこでふと、良いことを思いついた。やるのは随分と久しぶりのことだが、女としては誰かにそうしてあげるのは満更でもなかった。

崩していた脚を正して、自分の膝を軽く叩く。

そうして期待を込めた視線で彼を見つめた。聡い彼はすぐにこちらの意図を察してくれる。

「そんな、いいですよ」

「いいからいいから。たまには甘えてちょうだい。こういうことは、やる方も嬉しいんだから、小母さんのためにも。ねっ」

おねだりをするような心地で、微笑みながら彼を促した。

レティは、私のこういった仕草が憎たらしいとよくぼやいている。なんでも、男から拒否という言葉を消滅させる力を持っているかららしい。

昔はそんなことも無かったが、今では私自身それを自覚しながら使うこともあった。

そして、それは黒煉さんにも例外なく効果を発揮してくれた。

「じゃあ、失礼して」

「どうぞ」

ぎこちない動作で、ゆっくりと私の膝の上に頭を乗せて、身体を芝生に横たえる。

両足に感じる懐かしい感触に、私も昔を思い出した。

クライドさんにもしてあげたことがある。彼は、こうしたゆっくりした時間の過ごし方はあまりしなかったから、数自体は少なかったが。

クロノもすぐに恥ずかしがるようになって、逃げていってしまった。

そういえばフェイトにはやってあげたことは無かった。子供なんてあっという間に成長しちゃうから、帰ったら声を掛けてみよう。

どこか胸の暖かくなる重みを感じながら、空を見上げた。

雲ひとつ無い、なんてことはないが、それでもよく晴れた綺麗な青空だった。所々にぼやけて浮かぶ白の綿は、青だけの空より柔らかさがあって、むしろ安心させてくれる。

辺りを見渡せば、私たちのように寛いでいる人の姿が多く見えた。

こうしていると遊園地の中にいるなんて、忘れちゃいそうね。

ふと視線を感じて下を見遣れば、黒煉さんが目を開いて私の顔を見つめていた。

「本当に綺麗ですね。なんだか、そういう特別な魔法でも使っているかと思うぐらいです」

一瞬彼が何を言っているのか理解できなかった。

私と同じように空のことを言っているのかとも考えたが、それにしては目線がずれている。

そうして今の台詞が私自身に向けられたものだと気付いたとき、私の鼓動は早鐘のごとく高鳴って、一気に顔が紅潮するのを感じた。

「なぁっ!?」

「なぁ?」

思わず変な声を上げてしまった。黒煉さんも意味不明な台詞に首をかしげている。

加えて予想以上に大きな声量だったようだ。周りにいた人たちも何事かとこちらに視線を向けていた。

しかしそこに浮かんでいるのは、迷惑ではなく微笑ましいといった笑顔だった。

それでも恥ずかしいことには変わりないので、首を縮こまらせて声音を落とす。

「あっ、あの黒煉さん。突然何を……」

「さっきの店にいた時も思ってたんですけどね、こうして見るとますます綺麗だなと」

ちょうど影になって、陽の光でキラキラする髪だとか、その優しい表情だとか。

一つ一つ言葉にして説明する彼に、私の焦りは増すばかりだった。

男性にそういった賛辞の言葉をもらうことなんて、この十年余りの間一度も無かった。

余りにも突然過ぎるその台詞に思わず舞い上がりそうになったが、あることに気付いた瞬間、冷水を浴びせられたかのように冷静になった。そして同時に途方も無い寒気も。

今までとは違う要因で鼓動が早くなりそうだった。

以前から思っていたことだが、黒煉さんは他人との距離のとり方がおかしい。肉体的ではなく、精神的な距離だ。

自分の側にはある一定の距離を境に、全く近づけさせることは無い。

それは私に限らずシグナムさんはおろか、フェイトやはやてさん、なのはさんが相手であっても変わることの無い隔たりを設けている。

その強固さは、むしろ揺るぐことの無い壁と言い換えても良いほど絶対的なものだった。

自分自身それをしている自覚はあるのだ。

だからこそ、そう見えないような演技を常に、片時も気を緩めることなく続けているのだ。

歓喜の仮面を

  怒りの仮面を

    笑顔の仮面を

絶えず何かしらの仮面をつけている。

おそらく、自分の心に触れられるのを恐れているのだ。

それが『からっぽ』であることを気付かれたくないのだ。

何人たりとも、自分の定めた絶対領域を侵すことを許しはしない。

この施設を回っているときもそうだ。彼がアトラクションで高得点を叩き出したとき、喜びと勢いで彼を抱きしめようとしたが、それも自然な動作を装って避けられた。

それは、どうしようもない拒絶の表れだった。

だがその反面、自分から行動したときはたやすく相手の壁を突き破ってくる。まるでそんなもの無いかのように、まさに擦り抜けてくる。

距離感を掴めないという訳ではない。

彼はそんな鈍くはなく、むしろ鋭く思慮深い人間だ。他人との間合いを認識してなお、それを気にしない無神経さも彼は持ち合わせていない。

つまり、その両者よりも前の段階に問題があるということ。

それが何か気付いたがゆえに、今も襲い来る寒気を感じたのだ。

黒煉さんは、そもそも距離なんてどうでもいいと思っているのだ。

だからこそ、それを認識することなく踏み込んでくる。


黒煉さんは、そもそも未来なんてどうでもいいと思っているのだ。

だからこそ、相手との関係がどう拗れても構うことはない。


まぶたを閉じた彼の髪を撫でようと手を伸ばしても、それが触れようとした瞬間、かすかに強張るその身体。

そうと知らなければ気付けないほどの、本当にわずかな硬直。















黒煉さんは……自分がいつ消えてしまっても構わないと思っている。















 ◆◇◆◇◆◇◆















なんだこれ、旅館か。

目の前にある建物は、俺にはどう見ても和風の老舗旅館にしか見えなかった。

他所の次元世界ではめったにお目にかかることの出来ない、完全な木造建築。そうありながら、未開世界のような乱雑さは見受けられない。

物理的な計算はされていなくとも、確かに長年の経験を積み重ねた結果得られる、人の知恵の結晶がそこにはある。

広く取られた間口に、その上を覆うのは年季を感じさせる瓦屋根。

風雨に晒されても朽ちることなく、逆に艶を持ってその美しさを増した飴色の外壁。

極めつけは、からからと転がるような音を立てて開いた扉から出てきた和装の女性、仲居だ。

どこから見ても旅館だ。

でも、ここは日本じゃない。地球ですらない。

出迎えの仲居さんと話しながら中へと入っていくリンディさんの後に続く。

あらかじめ予約をしておいたようで、滞りなく宿泊の手続きを終えて客室へと案内される。

部屋に入っても、そこに広がるのは見事な畳と座卓。奥の襖の向こうにはもう一室あるようで、そちらには囲炉裏まであるようだ。

「驚いた?」

困惑した様子が表に出ていたようで、楽しそうにリンディさんは俺に笑いかける。

彼女の態度を見るに、俺のこの反応を期待して宿泊場所を決めたのかもしれない。

「そりゃあ驚きますよ。なのはやはやてでも、同じ感想を持つでしょうね。ここのものを形容するのに相応しくないかもしれませんが、どっからどう見ても和風としか言えません」

「ふふ、期待通りね。不思議に思うのは無理もないかもしれないけど」

いたずらが成功した子供のようにコロコロと笑う彼女は、そのまま答え合わせを始めた。

高度に魔法技術が発達した現在でも、次元世界に果ては見つかっていない。

そもそも、果てと言うべきものが存在しているのか否かさえ、証明はなされていない。

今のところ、無限とは言えないまでも、それに類するまでには広大だろうというのが大方の見解だ。

既に数百の世界が観測されており、それだけの数があれば酷似した文明が発生していることもあり得る。

その中で地球と似た道を進んだのがこの世界だということらしい。

アースラの彼女の執務室が純和風だったのも、別に日本をモデルにしたのではなく、この世界を参考にしているとのことだった。

「この旅館は、その中でも私のお勧めでね。特に温泉が良くて」

下手な相槌しか打てないにもかかわらず、それを気にせず話し続ける彼女はとても楽しげだった。

見ているだけの相手でも、その楽しさが染み込んでくるような、そんな力が彼女にはあった。

「思ったよりも着くのが遅くなっちゃったわね。すぐに夕食だから、お風呂に入るのはその後にしましょう」

「俺はそれで構いません」

やはり見慣れた料理が並ぶ夕食を終えて、とりあえず浴場へと向かう。

しかし、彼女が本当にここの温泉が気に入っているかどうかは分からない。高町家の誰かに、俺が風呂好きというのを聞いており、だからここを選んだ可能性だってある。

そんなことを考えている自分が、いかに他人の気持ちを素直に受け入れられない、ちっぽけな人間なのかと呆れてしまう。

それにしても、類似する文明へと発展しうるといっても、似すぎだよな。

彼女と別れ、脱衣所で身に着けていたものを籠に入れながら考える。

三段の背の低い棚に、さほど余裕を持たせずに並べられた籐製の籠。二つ並んだ洗面台に、その横には体重計。

先ほどの食事でもそうだが、今自分がいる世界が、果たして地球なのかそうでないのか分からなくなる。

「じゃあ荷物番は頼ん……いや、やっぱりお前も来い」

髪を結っていたアコンプリスを外して、一度は服と一緒に籠に入れたが、思い直して再び、だが先ほどまでより簡単に纏める。

『どうかしましたか』

「自分の家ならまだしも、湯船に髪を付けるのは無作法だろう。別に錆びるってわけでもないんだから、今日は付き合え」

引き戸を抜けて中に入れば、まず広がるのは内湯。室内風呂といえど、タイルのような味気ないものではなく、岩を組まれてしっかりとした造りになっている。

元々の広さもかなりのものだが、四方のうち二面を完全なガラス張りにしているから閉塞感は全く無かった。

軽く掛け湯をしてから大きく息を吸い込み、ゆっくりと足先から時間を掛けて体を沈めていく。腹部まで使った辺りで、少しずつ息を吐いた。

特に何かを思うことも無く、徒に天井だけを見つめて時間が流れた。

先ほどアコンプリスに言ったのは適当な言い訳だが、実際のところは独りになりたくなかったのだ。今日は、特にその思いが強かった。

楽しくはあったが、同時にとても神経をすり減らしてもいた。理由はもちろん、あの人とずっと一緒だったからだ。

それがとても辛かった。何度も逃げ出したくなった。その度に吐きそうになる気持ちを抑えて、仮面をかぶった。

湯温に身体が慣れた頃合いを見計らって、仕切りを越えて露天へと向かう。

石畳の階段を上っていって辿り着いた場所は、確かにリンディさんの言うとおり素晴らしいものだった。

周りの自然に溶け込むように広がる複数の露天風呂。元々旅館が山の奥深くに位置しているため、周囲の木々の葉の蒼さも並ではない。

開けた頭上は、群青のキャンパスの上に描かれた月と星々の神秘的な白と黄が彩っている。

どこか白だけでなく青く濁った泉色は、室内風呂で感じた味から察するに、酸性の硫化水素泉だろう。

この泉質の温泉は強い毒性を持つ硫化水素ガスのために、通常であれば余り長湯は出来ない。だが周囲の地形を見る限り高所に造られているようで、その心配はなさそうだった。

アコンプリスの簪だけでは全ての髪が収まりきらないので、持ってきた手拭いでひっつめる。

手頃な岩に背を預けて辺りを見渡せば、ちょうど出入り口と並ぶ洗い場の反対側に、一つの石像があった。

薄暗くて細部まではっきりと認識することは出来ないが、観音菩薩像のように見える。それを目にして、あの人のことを思い出した。

俺とよく似た黒い髪を持ち、厳しくても優しい笑顔を浮かべるあの人。

その姿を思い浮かべながら、ふと後ろに感じた気配に振り向けば、凶悪なまでの破壊力を持った裸体があった。

「よかった。やっぱりここにいたのね」

今まで頭の中に描いていた像と目の前の女性が重なって、思わずその姿を凝視してしまった。










普段と変わらぬ穏やかな笑みを見せ、だが上気して赤みを増したその表情。

翡翠の髪は今自身がしているようにひっつめられ、覗くうなじには零れた幾筋かが軽い汗で張り付いている。

さらに視線を下へと向ければ、どこか硬さを持つシグナムとは異なり、女性的な柔らかさだけで構成されたその肢体。

華奢な肩を越えた先はタオルで覆われているが、それだけでは隠しきれない豊満な乳房。むしろ、湯に濡れたタオルは素肌に張り付いてその頂にある薄桃色の透けさせ、より肉感的にその形を表現していた。

圧倒的な質感を誇る胸の膨らみに対して、抱きしめれば容易く折れてしまいそうなくびれを持った腹部。

腰周りも年齢を感じさせず、柔らかい丸みに包まれ、長く伸びた足は細すぎずに、指で突付けば適度な弾力を返しそうだ。










「あんまりじっと見つめられると、さすがにちょっと恥ずかしいわ」

困ったようにそう告げられて、ようやく自分の無遠慮な視線に気が付いた。

「ああ、すいません」

鼻血出てないよな俺。大丈夫だよな。

いや、待て。それよりも聞いとかなきゃいかんことが。

「何でここにいるんですか」

「ここの温泉はね、内湯は男女別にあるんだけど、この露天風呂だけは両方から繋がって混浴になってるのよ」

参った。そんなこと全然知らんかった。

そもそもミッドやベルカならまだしも、この世界の言葉が俺には読めない。アコンプリスに聞けば訳してくれるだろうが、それも面倒だから適当に流れに身を任せていた。

「一緒に入りたくってね。温泉好きって聞いてたから、長湯するならここにいるかなって」

失礼します。

そう俺の背中に話しかけながら、隣で湯船の中に身体を沈めていった。

それで生まれた波が俺の身体をくすぐる。その柔らかい感触に心地よさを感じながらも、居心地は悪くなった。

彼女は何か話しかけることもなく、ただ横で空を見上げていた。

俺が温泉が好きな理由は、至極単純なものだ。ただ、よく母さんと一緒にきた。それだけに過ぎない。

仕事の都合上、一日二日でも日本全国を廻ることが多かった。その間まだ幼い俺を一人残しておくわけにもいかず、またサーチャーによる監視も怠ることは出来ないため、いつも一緒に連れて行かれた。

実際の場面に居合わせることはなかったが、終わった後には地元の旅館に立ち寄るのがもはや約束事になっていた。

こうして自然の中で湯に浸かっていると、その時の思いが明確に甦ってくるようで、それを俺は求めているんだ。

「ねえ、黒煉さん」

呼ばれて視線を向けても、彼女は空を見上げたままだった。

「背中流してあげる」

「…………はい」

俺はその言葉に、抗うことが出来なかった。

湯から上がっても、身体が冷えることは無い。四季があるかどうか分からないが、ちょうど今の地球と同じように少し蒸し暑いぐらいの気温だ。余り身体に障るということも無いだろう。

洗い場で風呂椅子を二つ並べ、彼女を背に腰を下ろした。

後ろからタオルでボディソープを泡立てているのが気配で分かる。

「じゃあ、痛かったりしたら言ってね」

背中をタオルが滑っていく。

決して強過ぎることは無い。

決して弱過ぎることは無い。

余計心に波が起きた。

それは、誰かを洗うことを知っている者の、絶妙な力加減だ。

突然、髪が重力に引かれて首に力が掛かった。纏めていた手拭いとアコンプリスを外されていた。

「髪、長いわね」

「はい」

「やっぱり、お母様に憧れて?」

「はい」















「長いと大変じゃないかって聞いたことがあるんです」















「そしたら、長くないと簪をつける意味が無いって言って」















「父さんが、母さんにくれたたった一つのものだから、ずっと身に着けていたいって」















「普段は絶対に父さんのことは話そうとしなかったのに、その時だけは少しだけ話してくれて」















「本当にアコンプリスのことを大事にしてた」















「本当に父さんのことが大好きなんだって思った」




















聞かれてもいないことを、口が勝手に話し始めた。

自分でも、何を言っているのか分からなかった。

でも、聞いて欲しかった。

今まで誰にも言ったことの無いこと。




















「黒煉さんは……」




















だが俺の言葉は遮られた。

強引に割り込んできた彼女の優しい声に。

























「私や桃子さんのこと、ずっと避けてたわよね」




















彼女が何を言っているのか




















「別に避けてたっていっても、嫌ってたわけじゃないのは分かってる」




















彼女が何が言いたいのか




















「正確に言えば、苦手にしてたのよね」
















俺には分からない




















「その理由だって、分かってる」




















分からなくても、俺の胸を刺す言葉に変わりは無い




















「私たちを見ると、どうしても思い出しちゃうのよね」




















そうだ、貴女たちはどうしようもなく




















「お母様のこと」




















母親だから




















「でもね、そのままで良いはずなんてないの」




















構わない




















「貴方の未来は」




















俺の未来は




















「どうでもいいものなんかじゃない」




















いつの間にか前へと回りこんでいた彼女は、俺を強く、強く抱きしめた。




















「っ!? 離してくださいっ!!」




















その温もりは、俺の胸に何かを齎す。




















「お願いします! 離してくださいっ!!」




















抗うように引き剥がすための力を込めるが、彼女はそれを許してくれなかった。




















「駄目よ! 貴方は今ここで……!」




















抑えていたものが込み上げる。

























あの日


























あの時


























あの場所に置いてきたもの
























「お願い、離して、でないと俺は……」

























それが今になって

























「泣いていいのっ!! 泣かなきゃ駄目なのっ!!」

























溢れ出した

























「あぁ、ぅぁ、あああぁぁーーーーーーーーっ!!!!」


























それまでとは逆に、俺は目の前の女性に縋り付いた

























恥も外聞もなく

























全てを投げ出して

























泣き続けた
























母さん

























俺は

























貴女のことが

























大好きでした

























貴女の言葉が

























貴女の笑顔が

























貴女の声が

























貴女の温もりが

























貴女の全てが

























本当に

























大好きでした


























リンディさんの胸の中で、俺は感じていた





涙となって、身体からは何かが失われているはずなのに





          それは哀の言葉





流れた涙の分だけ、心に何かが満たされていくのを





          それは愛の言葉















 ◆◇◆◇◆◇◆















「ごめんなさい。恥ずかしいところを見せちゃって」

あれから一時間ほど経っただろうか。ずっと黒煉さんは泣き続けた。

顔を涙でクシャクシャにして、鼻水でべとべとにして。

普段のからは考えられないような、無防備さを晒して。

全てを吐き出した彼の笑顔は、今までに見たことが無いほど年相応で、あどけなくて、とても、とても輝いていた。

抱きしめたくなるほど、愛らしい笑顔だった。

「いいのよ、私がそうするようにしたんだもの。それに、今日は私たち以外宿泊客もみえないし」

「うん、見られたら羞恥心の余り死ぬね」

少し変わり過ぎな気もする。まあ、可愛いのだから良しとしよう。

まだ情緒不安定というのもあるだろう。暫くすれば、落ち着くはずだ。

二人並んで湯船に浸かり、色々なことを話した。

今までの分を巻き返すかのように饒舌になる彼に、私は苦笑を隠せない。

初めて、彼との距離が縮まった気がした。

聞きたかったこと、教えてあげたかったこと、言ってほしかったこと、求めてほしかったこと。

全部全部、この二年閉じ込めていたことだ。

私も彼に釣られて、ついつい口が滑らかになる。

「ありがとうございます、リンディさん」

「いいのよ、それが私たち大人の役割なんだから。むしろ、私達の方が謝らなければならないのよ。今の今までその責任を放棄してきたのだから」

そうだ、去年の春に出来ていれば、彼はこんなにも悲しまずに済んだかもしれない。

「時を逸することは悪くないとは言いませんが、仕方の無いことだってあると思います。大事なのは逸したからといって目を背けずに、それと向き合い続けることだと思います。

 俺にはそれが出来なかった。でも、リンディさんたちは違う。ずっと、ずっと考えてくれた。悩んでくれた。そして、成してくれた。そのことに、感謝を」

私を見つめるその澄んだ瞳に、私の方こそ泣いてしまいそうになった。

「でも、これからどうしようか」

そう不安げに呟く彼に、私たちが考えた答えを渡そうと思う。

彼はようやく自分の足で立ち上がった。

だが、まだ前も後ろも、右も左も分からない迷い子に過ぎない。

どこへ進めばいいのか、目的地がどこなのか。

それを見つけるのも、また個人のすべきことなのかもしれない。

でも、当座の目的地を示すことぐらいはしておいた方がいいだろう。

でなければ、またいつ躓くことになるか分からない。

彼が、自分で考えられるようになるまで。それまでの仮のレールだ。

「ねえ、黒煉さん。こんなことを今の貴方に頼むのは、酷なことなのかもしれない。それに、それは本来私たちがやらなきゃいけないこと。でも貴方のために、お願いするわ。

 護ってあげて。

 フェイトを

 なのはさんを

 はやてさんを」

これが私たちの答えだ。

今の彼なら、その心にすっぽりと納まる。そう思える。

「いいよ」

間断なく返される、快諾の言葉。

本当は、この子だってまだ護られる立場なのに。

そう思うと、どこか胸に痛みが走るのも事実だった。

「でもその代わりに、リンディさんが俺を護ってよ」

私の胸の裡を呼んだかのように、笑顔で告げられる彼の願い。

本当に、本当にどこまでもよく気が付く子で。人の気持ちを察してくれて。

かつてシグナムさんは、目の前の少年をこう形容した。



『人の気持ちはすぐに理解するのに、しかし人の心情は全くわかろうとしない』



だが、もうそれは過去のものになろうとしている。

これまでの彼とは、もう違う。

ほんの少し大人になった。

私も涙が出てきた。

それを誤魔化すように彼を抱きしめる。





今度は、優しく受け入れられた。















 ◆◇◆◇◆◇◆















窓から差し込む光に意識が反応した。

瞼が重い。

だが、それは昨日までのような憂鬱さから来るものとは違う。

起きるのが嫌なのではない。現実を拒否しているのではない。

もっとこの安息の時間を味わっていたいという、正方向の欲求だった。

目の前にある温もりを求めて身を縮こまらせ、腕を回して擦り寄る。

柔らかいものに顔が包まれた。同時に、何とも形容しがたい甘い香りも鼻腔をくすぐる。

「ふぅ、んぁっ、だめよ、そんなところ」

聞きなれた声だが、聞いたことの無い官能的な声音で鼓膜が震える。目を開ければ、視界いっぱいに広がる肌色。

昨日のことを思い出しそれが何か認識するやいなや、眠気なんか一気に吹き飛んで脳が瞬時に覚醒する。

今まで出したことの無いような速さで寝床から離脱し後ろに跳び退るが、直後見事な欅の柱に激突して後頭部に衝撃が奔る。

とても木と肉がぶつかって出たとは思えない凶悪な音が室内に響き、それで一緒に寝ていたリンディさんもようやく目を覚ます。

「ちょっとっ!? 大丈夫!?」

さすが元L級八番艦アースラの艦長だ。起きた直後であろうとその状況認識速度は半端ではない。

だがそれよりも、自分の着衣状況を確認してほしい。

「すいません大丈夫ですそれより先に浴衣を直してください」

もうホント色々丸出しなんですから、勘弁してください。

あぁっ、くそっ。今日からはちょっと違って生きていこうと思った矢先にこれか。

幸先悪いな。あー、頭いてぇ。

切実な俺の言葉に対して直ぐに浴衣の乱れは直してくれたが、どこかつぼに嵌ったのかリンディさんはずっとお腹を押さえて笑っている。

恥ずかしさで顔が赤くなっていくのが分かったが、俺もおかしくなって痛みを忘れて笑ってしまった。

せっかちな太陽に背中を押されて、二人で一緒に朝風呂へ。

思いの外長湯になってしまったため、急かされるように朝食を済ませて宿を後にした。

わずか一泊二日の短い旅行だった。今時、小学校の修学旅行のほうが長いことなどざらにあるだろう。

でも、期間なんて関係ない。

この旅は、俺の将来を決定付けた。そう断言できる。

あの後、そのまま翠屋へと足を運んだ。今までの俺の身勝手な振る舞いの謝罪をしたかった。

ずっと前からあの人たちは気付いていた。それでも、見ない振りをしてくれていた。その感謝とともに。

だがその場所で、予想もしない事態が待ち受けていた。

土下座をされた。それもあの、士郎さんと恭也さんにだ。

今まで夢らしい夢を持つことが無かったなのはが、初めて口にした将来の夢。それを否定することは彼らには出来なかった。

だが、なのは自身が気付いていないその夢の恐ろしさも、士郎さんと恭也さん、美由希さんは気付いていた。

自分たちの手の届かない世界に羽撃いていこうとしているなのはを、同じ力を持つ俺に頼んだ。

こんな俺に、頭を下げた。

全く責任重大だな。

どこか心地よい頭痛の種に頭を悩ませながらリンディさんと別れ家に辿り着いたときには、夏の太陽はとうの昔に南中を通り越していた。

気温もピークを過ぎて、これから夜にかけては過ごしやすくなる時間帯だ。

蒸し暑さで一杯であろう部屋に入ろうと玄関を開ければ、漏れてきたのは適度に冷やされた空気。

そして二つの気配。

「おかえり、黒煉君。旅行は大成功だったようで何よりだ」

「ですが残念ながら、悪いお知らせがあります」

スクーデリアとレヴェントンだった。

そうか。もうその時が来たのか。

「いいよ、みなまで言うな。三十分だけ待ってくれ。準備するから」

下げていたドラムバッグを下ろして、中身を急いで洗う。乾かす暇は無いから、そこは精霊に頼んだ。

室内を見苦しくないように整える。ゴミは昨日出発前に出したから、一つも無いはずだ。

衣装棚から黒のスーツを引っ張り出し、同色のネクタイを合わせた。

「お待たせ、行こうか」















別れの時だ。
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